第43話

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「レオホルト男爵なら、さっき城門の近くで見かけたよ」
「城門で、ですか?」
「多分城内に用事があるんじゃないのかね」
 ちらっと見ただけだからよく分かんないけど。通りすがりの若い騎士は肩を竦め、城のほうへ首をめぐらせる。
「どうもありがとうございました」
 エルゼリンデは彼に対して丁重に頭を下げると、とりあえず城の方角へ足を進めた。
 城の中にいるんだったら、すぐには会えないかもしれないな。歩きながらぼんやり考える。フロヴィンシアでは許可がない限り本城内への出入りは厳しく制限されているから、確実にレオホルト隊長を捉まえるなら城門付近で待ち伏せするしかないだろう。ローゼンヴェルト将軍の名前を使わせてもらうという手段もあるが、さすがに会って間もないお偉いさんの名を勝手に持ち出すのは気がひける。それになにより、できれば城には近づきたくなかった。
 時間を改めたほうがいいかも。考え直したエルゼリンデが方向転換しかけたとき、木立を挟んだ向こう側の道に優美な人影が目に入った。長く伸ばした金髪をひとつに束ね、颯爽と歩く姿はまさしくレオホルト隊長のものだ。エルゼリンデは道を外れて木々の間をすり抜け、小走りに隊長のあとを追う。
「レオホルト隊長」
「――ああ、ミルファークか」
 彼女の呼びかけに美貌の隊長は立ち止まって応じる。そのエメラルドグリーンの双眸がどことなく翳りを帯びていることを訝りつつも、エルゼリンデは略礼を施した。
「その後、何か変わったことはないか?」
 僅かに眉を顰め、レオホルトが訊ねてくる。昨日の事件を言い指しているのはすぐに知れた。エルゼリンデは神妙な面持ちで肯く。
「そのことにつきましては、レオホルト隊長にもご心配をおかけしてしまい、申し訳ありませんでした」
 レオホルト隊長を捜していた目的のひとつは、昨日の件で心配と迷惑をかけてしまったことに対する詫びと、もう大事ないということを伝えるためだった。
「こちらのことは気にせずとも構わない。私も全容を把握できぬまま、後手に回るしかない状況だったのだから」
 若き男爵は端整な顔に苦い笑みを浮かべた。
「それにしても、結局は何事もなかったようで何よりだ」
「は、はい、おかげさまで……本当に、こちらの事情でご迷惑をおかけしてすみません」
 エルゼリンデは恐縮に肩を竦める。レオホルトは淡い金髪を揺らせてかぶりを振った。
「いや、私が言っているのは君自身のことについてだ。身に覚えのない、しかも重大な嫌疑をかけられ平気でいられる人間は少ない」
 真摯な眼差しを向けられ、実は身に覚えがありすぎるエルゼリンデはますます申し訳なさでいっぱいになる。
 隊長は俯き加減の部下から視線を外した。
「だが、それも今の君を見ていると問題なさそうだ。やはり、スヴァルトに頼んだのは正解だったようだな」
 涼やかな声に自嘲の色が濃いことに気づく。顔を上げると、僅かに屈折した微笑が目に入った。典雅で温和な雰囲気を持つ隊長には似つかわしくない表情だ。
 瞠目するエルゼリンデだったが、その微笑は幻のように霧散し、レオホルトは普段と変わらぬ表情で口を開いた。
「――用件は、それだけか?」
「あ……そ、そうです」
 はっとしたエルゼリンデは、気まずさを振り払うように頭を下げた。
「お忙しいところお呼び立てしてしまい、申し訳ありませんでした」
 レオホルトは優美な一礼で応え、踵を返して歩き去る。エルゼリンデは何度か目を瞬かせながらその後ろ姿を見送った。
 何かあったのかな。いつもと様子の違った隊長に、ただ首を傾げるしかない。本当はエレンカーク隊長に関して訊きたいことがあったのだが、とても話を続けられる雰囲気ではなかった。
 レオホルト隊長も色々と忙しいし、疲れているのかも。昨日だって自分の分隊の部下が拘束されたわけだし。
 エルゼリンデはそう結論づけ、さらに倍増した隊長への申し訳なさを抱えながらその場を離れた。


 出発の頃合いが間近に迫っているからか、城内のどこもかしこも気ぜわしい。エルゼリンデも仕事の途中で抜け出していたので、持ち場である倉庫へと急いでいた。が、数人の従騎士とすれ違った瞬間、その足がぴたりと止まる。
 処刑が執り行われたらしい。
 耳に聞こえてきたのは、そんな話。
 ゲオルグたちのことを言い指しているのだと直感的に察し、胸の痛みとともに目の前が暗くなっていく。
 エルゼリンデは小道を逸れて脇の木立の陰に座り込んだ。
 結局、自分は何もできなかった。否、はじめからできることなんて何ひとつなかったのだ。彼らの助命を働きかけられるほどの知恵や権力も、自らを犠牲にしてでも救出しようとする勇気と覚悟も、そのいずれもエルゼリンデは持ち合わせていなかった。やったことといえば後先も考えずに城に乗り込んで、色んな人に迷惑をかけただけ。
 エルゼリンデは乾いた地面を見つめたまま、唇を噛んだ。
 エレンカーク隊長は彼らの心の弱さだと断じたけれど、そこまで割り切って考えることはまだできそうになかった。自分に対する憤りと無力感は払拭しきれない。
 それでも、どれだけ自分を責めようとも、過ぎてしまったことはどうしようもないことも分かっていた。いくら努力しても、どんなに願っても、どうにもできないことが、この世にはある。
 だからこそこの思いもまた、自分の中に飲み込んでしまわなければならないのだろう。
 どんどん増えていく心の荷物の重さにため息を吐き出したエルゼリンデの脳裏に、いつかのセルリアンの言葉が甦ってきた。
 ――綺麗ごとだけで全てが都合良くいく砂糖菓子のような世界なんて、お伽噺の中にしか存在しないんだよ。
 底のない深淵を覗き込んでいるかのような、暗く冷ややかな声だった。エルゼリンデはぼんやりと考える。
 あのときのセルリアンの声。それをきっと、人は絶望と呼ぶのかもしれない。
 そう思うと、おぼろげながらも彼の輪郭に触れることができた気がした。今回の遠征にだって望んで参加しているわけではなさそうだし、セルリアンもエルゼリンデには到底図り知ることのできない、深い事情を抱えているのだろう。
 人間って、色々と複雑なんだな。エルゼリンデはまた嘆息してから、ようやく重い腰を上げた。
 そのときだった。
 不意に、眼前が黒く塗りつぶされる。
「……!?」
 比喩ではなく本当に何者かの手に目を覆われて、エルゼリンデは驚愕のあまり声も出せず硬直してしまった。
「だーれだ?」
 すぐそばで聞こえてきた声に、今度は背筋が凍りつく。礼を失しているなどと考える余裕もなく手を振り払って背後を顧みると。
 予想通りの顔が、そこにあった。くっきりとした青緑色の目は好奇の光に彩られている。
 確かシェザイアという名の、フロヴィンシア総督の息子のはずだ。
 エルゼリンデは口を開閉させながら、無意識のうちに二、三歩後ずさっていた。昨日城で遭遇した際には性別を疑われたり何やら危険なことをされそうだったりと、この男にはまるで好ましい印象がない。
 そんな彼女のあからさまな態度などどこ吹く風、シェザイアはにこやかに微笑んだ。
「奇遇だね。こんなところで再会するなんて」
 むしろ偶然を呪いたい。エルゼリンデは額に脂汗を滲ませつつ、さりげなく身構える。何かあってもすぐ逃げられるようにするためだ。
 シェザイアは彼女の様子に若干目を細めた。
「なーんてね。本当は、君を捜してたんだ」
「……は?」
 思わず目を瞠り、訊き返していた。シェザイアの微笑は含み笑いへと転じている。
 いったいどういうことだろうか。眉根を寄せると、シェザイアが一歩近づいてきた。
「ちょっと気になることがあってさ」
 顔を覗き込まれ、怯んだように息を呑む。傍から見ると、蛇に睨まれた蛙の状態に違いない。
 フロヴィンシア総督の息子は、面白そうに口の端をつり上げた。
「君って、アスタールとどんな関係?」
 エルゼリンデは目をぱちくりと瞬かせた。
「……はい?」
 たっぷり数十秒分の間を置いて、ようやく言葉を返す。するとシェザイアはやや意外そうな顔をした。
「昨日、城で密会してたでしょ?」
 にわかに怪しげな単語を出され、エルゼリンデは驚愕に仰け反った。
「みっ、みっかい……!?」
 あれは自分が一方的に押しかけて無理な頼みごとをしただけだったので、そういう風に言われるのは心外である。というかなぜ彼がそのことを知っているのだろうか。
「あそこは俺の城だから、俺の与り知らぬことなんて何もないわけ」
 シェザイアはまるで彼女の心中を読み取ったかのような返答をして、得意げに笑う。驚きから覚めたエルゼリンデは、少しだけ冷静さを取り戻していた。
「み、密会と言いますか、あれはちょっと用事があったので、私が勝手にお会いしに行っただけです」
 とりあえず変な誤解のないよう訂正しておく。しかしシェザイアは引き下がらなかった。
「ふーん。じゃあ訊き方を変えるけど、君はアスタールの何?」
「な、何、ですか……?」
 抽象的な質問をぶつけられ、エルゼリンデは戸惑いを顕わにする。何と訊かれても、こちらが知りたいくらいだ。
「ええと、その、主君と一介の騎士だと思いますけど……」
「それは、嘘」
 適切に答えたつもりが、即座に切り捨てられてしまい、エルゼリンデはますます困惑した。それ以外に何があるというのだ。
「嘘と申されましても、そうとしか言いようがありません」
「とぼけるのが上手いんだな」
 シェザイアはまともに取り合ってくれなかった。それどころか目つきが心なしか鋭くなっている気がする。
「今日のアスタールの様子を、君にも見せてあげたいくらいだよ。あいつ、昨夜君に会ったあとからやけに落ち込んでてさあ。これは君と何かあったなと踏んだわけなんだけど、本当に心当たりないの?」
 ううっ。彼の言葉を聞いてエルゼリンデは言葉を詰まらせた。確かに、心当たりはないとは言えない。おそらく昨日の無理なお願いが殿下の負担になってしまったのだ。あまつさえ最後には失礼な態度を取って怒らせてしまったし。
「やっぱり、何かあるね」
 黙りこんだ彼女を見て、シェザイアが追究を強める。いったい何を話したらいいのか分からず、途方にくれかけていると。
「おやおやおやおや、これはこれはフロヴィンシアのどら息子どのじゃありませんか」
 突如、場違いなほど滑稽な声が割り込んできた。
「シュトフさん……カルステンスさんも」
 こちらへ近づいてくる二人組の男を視認して、エルゼリンデは思わず声をあげていた。そこに「助かった」との安堵が込められていたことは否めない。
「うわ、また邪魔が入った」
 彼らに視線を移したシェザイアが舌打ちとともに呟く。
「こんなところで白昼堂々、いたいけな少年にちょっかい出してるなんて珍しいですねえ。男には興味なかったんじゃないですか?」
 相変わらず飄々とした態で、シュトフがシェザイアの目の前に立ちはだかる。
「宗旨替えでもなさったんですか」
 相変わらず淡々とした口調で、カルステンスも同調する。何だかどこかで見た光景だな。すっかり二人の背に隠れてしまったエルゼリンデは、妙な既視感を覚える。
「……少年、ねえ……」
 シェザイアは僅かに唇を歪めたが、彫りの深い顔にすぐさま興ざめした表情を張りつけた。
「あーあ。君らなんかにうっかり会うなんて、今日はついてないな。ま、別にそんな大したことでもないし、どうでもいいか。女の子を待たせるのも可哀想だしね」
 やや大げさすぎるそぶりで肩を竦めたシェザイアは、「じゃあね」とエルゼリンデに形容しがたい流し目を残し、あっさりとその場を立ち去ってしまった。
「あんなのに絡まれるなんて、災難だったなあ」
 わけもわからずぽかんとする彼女の頭に、シュトフの手が置かれる。
「あ、あんなの、ですか……」
 仮にもフロヴィンシア総督の息子に対して穏当な物言いとは思えない。エルゼリンデが眉を顰めると、今度はカルステンスが苦笑した。
「シェザイア殿はフロヴィンシアのどら息子として有名だからな」
「そうそう。それにミルファークにとっては教育上好ましくない人物でもあるから、次に見かけたら問答無用で逃げたほうがいいぞ」
「は、はあ……」
 確かに次に会ったときに何を言われるか分かったものではない。エルゼリンデは失礼とは思いつつも、シュトフの忠告に肯いておく。
「それは、お前にだけは言われたくないだろうさ」
 一方のカルステンスは同僚を呆れた目つきで一瞥し、いつものごとく揚げ足を取ったのだった。

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