第44話

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 太陽はほとんど南に差し掛かっている。エルゼリンデは自分の胸中とは正反対の、雲ひとつない蒼天を見上げた。
「んじゃ、一汗かいたことだしそろそろ昼飯にするか」
 あれだけ走ったのにもかかわらず、息ひとつ切らしていない様子でシュトフが声をかけてくる。
 エルゼリンデは呼吸を整えつつも、少しばかり眉を顰めた。
「でも、そろそろ仕事に戻らないと」
 シェザイアとの望まぬ再会のあと、今の今までシュトフの発案による、フロヴィンシアのどら息子と遭遇を想定した「迅速に、かつ敵に砂をかけながら逃走する訓練」を行っていたのだ。その実態はカルステンスいわく「ただの鬼ごっこ」であったわけだが。
 いずれにせよ、楽しかったし身体を動かしたことで心も晴れたが、そのぶん時間をくってしまったのも事実。
 エルゼリンデが躊躇いがちに告げるも、シュトフは濃茶色の頭を振って彼女の言葉を退ける。
「あのな、ミルファーク。戦いに参加しないお偉方のほどんどは仕事をしに従軍してるんだぞ。危険を顧みず自らの役目を全うしようという崇高な志をいだく方々のお仕事を、何の官職も持たない下っ端騎士風情が横取りするなど許されることであろうか、いや、許されるはずがない」
 もっともらしいことをもっともらしい表情で放言するシュトフに、珍しくカルステンスが追従する。
「ただ威張り散らしてるだけでは、お役人がたもさぞや不満が募るだろう」
「な、なるほど……」
 何がなんだかよく分からなかったが、二人の気迫に押される形でエルゼリンデは肯いた。
「そういうわけで、我々はしっかりと休養を取り栄養をつけて、来る戦いの日に備えることが第一なのだ。それこそが騎士の本分、ミルファークも心しておくがいい」
 まるで教師のような口ぶりである。エルゼリンデはまたも肯くしかできなかった。彼女の反応を見て、シュトフは満足げに首を何度も上下させる。
「よしよし。では昼飯にするとしよう。もちろんこれは奢りだからな、カルステンスの」


 二人に連れてこられたのは、城下の市場の一角にある隊商宿だった。そこの食堂で提供される食事が格安かつ絶品なのだとは、シュトフではなくカルステンスの言である。
 はじめは白昼堂々仕事を放り出して油を売っていることに後ろめたさを感じていたエルゼリンデだったが、おいしい料理と二人の騎士の見事なまでに息の合った掛け合いに徐々に心をほぐしていく。
「そういえば、お二人に訊きたいことがあったんです」
 だいぶ緊張を解いたエルゼリンデは、昨夜から胸にわだかまっており、先ほどレオホルト隊長に訊きそびれた疑問を思い切って披歴してみることにした。
「何だ?」
 カルステンスが薄い水色の双眸を向けてくる。エルゼリンデは一呼吸おいて、その内容を口にした。
「エレンカーク隊長と王弟殿下との関係?」
 そりゃまたどうしてそんなことを。突拍子もない質問に、シュトフも眉根を寄せる。
「あ、ええと……その、ちょっと気になったもので」
 二人の反応は当然のものだったが、そこまで考慮に入れてなかったエルゼリンデはしどろもどろな返事しかできなかった。
「ま、殿下とエレンカーク隊長についての話はそこそこ有名だからな。お前さんでも小耳にはさむことくらいあるか」
 シュトフもカルステンスも、特に不審がる様子はなく、エルゼリンデは内心で安堵の息をついた――なんとなく、最後の一言が引っ掛かったけれども。
「有名なんですか?」
 藍色の目を丸くして問いを重ねると、シュトフは鷹揚に肯いた。
「そりゃあ、兄弟弟子みたいなもんだからな」
 その一言に、エルゼリンデはさらに驚いた。
「兄弟弟子? じゃあ、お師匠さんがいたってことですか?」
「そのとおり。ミクラウス将軍っつー、偉大なる爺さんな。もう引退してるけど」
 ミクラウス伯は先代の黒翼騎士団長だったお方だと、カルステンスが補足してくれる。
「ミクラウス将軍……」
 ふと、小首を傾げる。どこかで聞き覚えのある名前のような気がしたのだ。
「アスタール殿下にとっちゃ、ご幼少のみぎり以来の師匠だけどな。エレンカーク隊長とは、南方討伐で実力を見込まれて第一騎士団に抜擢されてからの付き合いかね」
 シュトフの声に、エルゼリンデの思考は目の前に引き戻される。
「俺が騎士団に入ったころにはもうエレンカーク隊長もいたし、結構長い付き合いなんじゃないか」
「そうすると、仲も良いんでしょうか?」
「酒を酌み交わす仲、とまではいかないようだが悪くはないだろう」
 答えたのはカルステンスである。
「第三者から見ると、身分差もあってか、とりわけエレンカーク隊長のほうが遠慮していたように感じるな」
「それに、俺の見たところ、少なくともアスタール殿下のほうは好敵手扱いしてるようだしな」
「こ、好敵手、ですか?」
 これまた意外な単語を出され、エルゼリンデは再び瞠目した。
「それはシュトフの溶けたバターのような脳みそから生み出された、実にくだらない妄想だから律儀に相手をしてやることはないが」
 しかし彼の爆弾発言は、冷ややかな目をした同僚の、吹雪を連想させる口調でばっさり切り捨てられてしまう。
「しかしアスタール殿下も一目置いていることは間違いない」
「いまや隊長は将軍街道を驀進中だからなあ。まあ当然と言えば当然なんだが、平民出身としては充分異例だろうな」
 二人の黒翼騎士団員の話に、エルゼリンデは驚愕を禁じえなかった。以前に一度だけ王弟殿下の口からエレンカーク隊長の名が出たことはあったが、その時はいかにも他人ごとといった風であったから、まさかそこまでつながりがあるとは思いもよらなかったのだ。
 驚きと意外さあふれる昼食を終え、エルゼリンデは用事があるというシュトフと別れ、カルステンスとともに城へ戻る。ちなみに昼食代はありがたいことにカルステンスの奢りであった。もちろん、シュトフの分は出さなかったけれど。
 帰途、エルゼリンデは博学の騎士にミクラウス将軍のこともいくつか訊ねてみた。かの将軍は数多の武勲をたてたことはもちろんのこと、軍隊、特に騎士団に根強く残っていた平民蔑視の土壌を改めようと尽力したこと、その理念がアスタール殿下にも受け継がれていること、傍若無人を地で行くシュトフですら頭が上がらない人物だということ、今は引退して領地で悠々自適の老後を送っていることを、エルゼリンデは知った。
 カルステンスに礼を述べて別れてからも、しかしエルゼリンデはなぜか釈然としない思いを抱えていた。
 ミクラウス将軍。やっぱり、どこかで聞いた名だ。
 だけど、とすぐさまかぶりを振る。いくら頭の中を覗いても、一向に思い当たる節はない。きっと有名な人だから、いつかどこかで大人たちの会話を聞きかじったのを覚えていただけだろう。エルゼリンデはそうやって自分を納得させると、仕事のため持ち場へと足を速めた。




 陽光が、下草の露にきらきらと反射する。一晩降り続いた雨も止み、空はすっかり初夏の青さを取り戻している。
 村に唯一の市場には人々や家畜がどんどん集まり、各々店を広げていく。エルゼリンデは馬に蹴られないよう用心しながら、人々の間をすり抜けるように歩いていた。
 目線がいつもよりも低い。きっとこれは夢で、ここは自分がかつて住んでいたリートラントの村だろう。エルゼリンデはぼんやりとそう思った。
「おや、お嬢さん、こんな朝っぱらからお出かけかい?」
 不意に横合いから声をかけられ、そちらに注意を向ける。声の主は筋骨たくましい農家のおばさんだった。
「うん。おさんぽにきたの」
 顔なじみの農婦の問いかけに、幼いエルゼリンデはにこりと笑って返す。おばさんは、気をつけなよと日に焼けた顔に気さくな笑顔を浮かべた。
 エルゼリンデはおばさんに手を振って別れると、市場の散策を再開する。こうやって朝食の前に村の人たちの働きぶりを眺めながらの散歩は、彼女にとってのささやかな楽しみのひとつ。兄と一緒のこともあるのだが、ミルファークはなにぶん病弱なので、今日のように一人ですることのほうが多かった。エルゼリンデは仮にも領主の娘でありまだ幼くもあるが、単独で村を出歩くことを咎める者はいない。わりと小規模な農村だし街道からも外れているため、余所者の出入りが皆無に近く、治安も良好なためである。
 久しぶりの散歩なので、心も足取りも軽い。エルゼリンデは村の住人と挨拶を交わしながら市場を抜け、緩やかな下り坂に入る。この先は遥か東にある大きな街道へ抜ける一本道で、村の入り口付近で遠くに見える馬車や隊商の姿を眺めてから屋敷に戻るのが彼女の日課だった。
 今日もいつもの場所に向かおうとして、共用井戸のそばでふと足を止める。
「この近辺に、騎士団が来てるんだってよ」
「ああ、村はずれの丘んところだろ? 西のほうで戦いがあったのは知ってるが、何で街道外れのこんな辺鄙なところを通るんだか」
「何もないところに、何があるんだってかなあ」
「でも、領主さまのとこもいろいろ慌ただしかったみてえだしな」
 村の男たちの世間話を、偶然にも耳に入れたのだ。
 騎士団? エルゼリンデは首を傾げた。言われてみればここ三日ほど父は忙しく、母も兄も伏せっていたのでエルゼリンデはたいそう暇をもてあます羽目になっていた。
 ――騎士団って、騎士さまがいっぱいいるところのことだ。
 エルゼリンデの藍色の瞳がにわかに輝きを帯びる。お伽話の中でしか聞いたことのなかった騎士に会うことができるかもしれない。エルゼリンデは早速方向転換すると、騎士団がいるという場所を目指して駆けだした。
 騎士たちを見物しようと考えていたのは、エルゼリンデだけではなかったらしい。丘のすそ野近くにはすでに人だかりができており、その先に見える馬匹と人のかたまりを遠巻きにしていた。エルゼリンデもそちらに歩み寄ろうとして、にわかに立ち止まる。人だかりに見慣れた使用人の姿があったのだ。もし彼女に見つかったら、騎士を見る前に「危ないですから」と屋敷に連れ戻されてしまう。
 いったん周囲をきょろきょろと見回してから、また方向転換する。丘の周囲を囲むように小さなが広がっており、そこを通って丘を登り、そこから見下ろそうと考えたのだ。さすがに丘の周りでは遊ばないよう両親から言いつけられていたが、村の子供たちとこっそり探検したことも一度や二度ではないから、近辺に物騒な獣の巣がないことももちろん知っていた。
 木々の間を抜けると、視界が開け、甲冑に身を固めた騎士と馬、そして黄金色の旗と黒い旗が風に翻るさまがエルゼリンデの目に飛び込んできた。
 視界に広がる光景に、すっかり目を奪われる。
 こんなにたくさんの馬も騎士も、今まで見たことがない。エルゼリンデは白い頬を紅潮させ、すっかり興奮していた。
 もうちょっと、近づいても平気かな。
 できるならもっと間近でじっくり見て、その様子を母と兄にも話して聞かせてあげよう。そう思い定め、ちょっと慎重な足取りで緩やかな斜面を下り、騎士団のほうへと足を進めていく。
 そのとき、突然体がふわりと宙に浮いた。
 誰かに背後から首根っこを掴まれ、エルゼリンデは言葉も出せず目を丸くするばかり。
「――こんなところを何がうろついてるのかと思えば」
 頭上から、男の声が降ってくる。
「ただの小汚いガキか」
 声は、ずいぶんと偉そうだった。

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