第62話

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 気がつくと、知らない部屋にいた。
 さっきまでいたはずの部屋と石の天井は同じだが、広さが圧倒的に違う。部屋だけでなく、寝台も。
 ここは、どこだろう。
 柔らかな寝台に横たわったまま、戦争が終わって目を覚ました時と同じことを考える。ゼーランディア城内なのは部屋の造りから見当がつくけれど、どうしてここにいるのか、それが分からない。
 エルゼリンデはひとつ息を吐いて、その疑問を体の中から追い出した。
 早く、起きなきゃ。
 捜さなきゃ。
 しかし、焦る気持ちを嘲笑うかのごとく、体がまったく言うことを聞いてくれない。まるで全身が鉛になってしまったみたいだ。
 どうして、動いてくれないの。
 焦燥が苛立ちへ変わっていく。そこへ、蝶番の軋む小さな音がエルゼリンデの耳に滑りこんできた。
「おや、目が覚めたのかい」
 最初の時とほとんど同じ状況の中、違っていたのは声だった。ローゼンヴェルト将軍の物柔らかなものではなく、芯の強そうな少し低めの女性の声。
「ヴァンゲルマイヤー夫人……」
 掠れた声で呟く。その口調にいくばくかの驚きが紛れていたのは仕方ない。まさか城主夫人が直々に彼女を訪ねて来て、おまけに料理まで持ってくるとは思わなかったのだから。
 彼女の驚きをよそに、大柄な城主夫人はたくましい腕に料理の皿を載せた盆を抱え、勇ましい足取りで寝台に近づく。
「さ、ほら。起きたんだったらこれをお食べ」
 湯気の立つ穀類の粥を、寝台横の小卓に置く。牛乳のほのかに甘い香りがエルゼリンデの気分を少しだけ和らげる。だが、胃は空腹を訴えかけず、食欲もいずこへと立ち去ったままだ。
 エルゼリンデは遠慮がちに口を開いた。
「……ありがとうございます。あとで、いただきます」
「そんな悠長なこと言ってたら冷めちまうけど、いいのかい?」
 ヴァンゲルマイヤー夫人が呆れた表情を覗かせて肩を竦める。
「あんた、そんなにひょろっこいんだから、こういうときこそちゃんと食べなきゃ駄目だよ。そんなんだと、いつまで経っても強くなれないよ」
 夫人の言葉に、エルゼリンデの藍色の双眸が見開かれる。
 きっと、ヴァンゲルマイヤー夫人にとっては幼子を言い聞かせる時のような、何気ない言葉だったのだろう。だけど。
 強くなれ。
 いつか聞いた、エレンカーク隊長の声が重なる。
 彼女は半ば無意識に肯くと、夫人に手を貸してもらいながら上体を起こした。そして、粥の入った皿とスプーンを手に取る。
「そうそう、ゆっくりでいいからちゃんと食べておきなよ」
 大人しく食べ始めたエルゼリンデを見てヴァンゲルマイヤー夫人は満足げに言葉をかける。
「皿はそこのテーブルに置いといて構わないから。それじゃ、またあとで様子を見に来るよ」
 部屋に入ってきた時と同じ歩調で出て行った。
 エルゼリンデは静かに食事を続けた。食べたくないと思っていたが、口に入れてみるとたちまちに食欲が戻ってくる。それに、穀物と牛乳だけの簡素な粥にもかかわらず味は上等だった。きっと食材の質が良いのだろう。
 食器の触れ合う音だけが、広すぎる室内に響く。貴族の女性にしては威勢のよい夫人がいなくなったからだろうか、先程よりもがらんとした静寂が濃い。
 食事を摂ったことは、今の彼女には良い方向に働いた。エルゼリンデは無心のまま食事を終えると、何も考えることなく寝台に横たわり、目を閉じる。睡魔はすぐに彼女の許を訪れた。
 どのくらい、眠っただろうか。
 目覚める直前のまどろみの中、扉の開く音が聴こえた。それに続く、規則的な足音。誰か来たのかな、ヴァンゲルマイヤー夫人かな、エルゼリンデは半分以上夢に囚われたまま取り留めなく思う。
 足音はすぐ傍らで止まった。そしてしばらくの、息を詰めた沈黙。
 目を開けてみようか。そんな考えが過ぎった時だった。
 額に何かが置かれた。大きく、ひんやりとして僅かに硬い手のひら。
「――あまり、…………な」
 空気に溶けてしまいそうなほど微かな、低い囁きが落ちかかる。どこかで聞き覚えのある声だった。瞼を上げて確かめようと思うも、冷たさが快くてエルゼリンデは再び眠りの淵へ誘われた。


 次に目を覚ましたのは、またも室内に響く足音のためだった。それもふたつ。
 今度こそ瞳を開くと、視界にはこちらを見下ろすヴァンゲルマイヤー夫人ともう一人、ローゼンヴェルト将軍の姿がある。
「もしかして、起こしちゃったかい?」
 申し訳なさそうな表情の夫人に、エルゼリンデは横たわったまま頭を振った。体を起き上がらせようと力を込めてみると、今度はちゃんと自分の意思が肉体にも伝わったようだ。
「お休みのところ申し訳ありません」
 起き上がった彼女に声をかけたのはローゼンヴェルト将軍だった。彼は寝台の傍らにあった椅子をゼーランディア城主夫人に勧めると、自らは毛の長い絨毯の敷き詰められた床に片膝をついた。
「気分はいかがですか?」
「……そんなに、悪くないです」
 エルゼリンデは呟くように答える。若干倦怠感はあるものの、気にしようと思わなければ気にならない程度だ。つい先刻まで付き纏っていた頭痛も今は引いている。
 それなら良かった。ローゼンヴェルトは柔らかな微笑を向け、それからこう告げた。
「もし動けるようでしたら、私に付き合ってくださいませんか?」
 エルゼリンデが藍色の目をばちくりさせる。どういうことだろうか。将軍の真意を量りかねていると、彼は「案内したい場所があるので」と苦笑がちに続けた。
 彼の申し出に肯きかけ――はたと隊長の顔を思い返す。そうだ、動けるならまた捜しに行かないと。
「あの、せっかく――」
「ようやく作れた時間を、あなたのために使わせていただけないでしょうか」
 琥珀色の瞳にひたと見つめられてしまい、エルゼリンデは次に紡ぐ言葉を失った。と、同時に認識する。彼と自分の間に横たわる、厳然たる身分の差を。
 急速に現実が舞い戻ってきて、顔を蒼くする。よもや将軍、しかも黒翼騎士団の副団長でもあり王弟殿下の腹心でもあるローゼンヴェルト閣下の申し出に対し、下級貴族の出自でしかない自分が私情を優先させようとするなんて。おまけに、多忙な合間を縫って自分のために時間を割いてくれるという破格の扱いを受けながら!
 エルゼリンデは我知らず背筋を伸ばし、襟を正した。
「も、申し訳ございません。喜んでお受けいたします」
 頭を下げて承諾する彼女の頭上で、将軍が相好を崩す気配がした。
「ありがとうございます」
 整った顔に魅力的な笑顔が浮かぶ。彼に憧憬の念を懐いているらしいローゼマリーあたりが見たら、感激のあまり卒倒してしまうのではなかろうか。
「身支度などおありでしょうから、私は部屋の外で待っていますので」
 そう言ってローゼンヴェルトは立ち上がり、扉の外へと消えていった。
 いったい自分に何の用事があるんだろう。エルゼリンデは訝りながらも支度を整えるべく寝台を降りる。そこへ、同じく椅子から立ち上がったヴァンゲルマイヤー夫人が「やれやれ」と肩を落とす姿が目に入った。
「まったく、あの人のどこが紳士なんだか。黄色い悲鳴を上げてるうちの使用人たちにも、ぜひとも見せてあげたいね」
「……?」
 エルゼリンデは嘆息とともに零された台詞の意味を把握できず、軽く眉を顰めたのだった。


 将軍を待たせるわけにはいかないと、身支度もそこそこに飛び出す。ローゼンヴェルトは扉のすぐ横で壁に背を預けるように佇んでいた。
「お待たせして申し訳ございません、閣下」
 声をかけると、彼は僅かばかり眉を寄せた。エルゼリンデはぎくりとする。そんなに待たせてしまったのだろうか。
 しかしローゼンヴェルトの機嫌が傾いたのは、別の理由にあった。
「以前も言ったはずですが。マウリッツで構わないと」
「……あ」
 そうだった。フロヴィンシア城で総督の息子の魔手から救い出された時、彼の呼びかたでひと悶着あったのだ。うっかり失念していたエルゼリンデは素直に頭を下げた。
「まあ、そこまで気になさらなくても結構ですよ。いずれ慣れていただければいいだけの話ですから」
 ローゼンヴェルトが爽やかに微笑む。慣れるほど呼ぶ機会もないんじゃなかろうかと思いつつ、エルゼリンデも曖昧な笑顔を返す。
 将軍に案内されたのは、自分が今いた部屋よりも一回りは大きい扉の前だった。言われなくてもお偉いさんがいると想像できる場所に連れてこられ、エルゼリンデの華奢な体が緊張に竦む。
「さあ、どうぞお入りください」
 彼女の躊躇を知ってか知らずか、ローゼンヴェルトは気さくに扉を開けた。そっと室内を窺うと、広大な部屋が飛び込んでくる。一番奥には天蓋つきの寝台があり、他の調度品を見ても誰かの私室であるらしかった。それも、かなり身分の高い人の。
「ええと、ここは……」
 本当に自分なんかが入っていいものか。戸惑いながら将軍を見上げる。ローゼンヴェルトは微笑を崩さずに頷いた。
「大丈夫ですよ。ここは現在、私が使わせていただいている部屋ですから」
「ロー、じゃなくて、マウリッツさんのお部屋ですか!?」
 エルゼリンデは仰天してしまった。こんな凄い部屋を持っていること以上に、自分がそこに招かれたという事実に、である。
「遠慮は要りませんので、さあ、どうぞ」
 半ば背中を押される形で部屋に招き入れられ、中央付近に拵えられた円卓の席に座らされる。
 あまりの展開にさすがに疑惑と不審の眼差しを隠せなくなるのも無理はない。ローゼンヴェルトは椅子に座ったまま固まっている彼女に向かって、少し声を潜めた。
「実は、あなたにお願いがあるのです」
 お願い?
 エルゼリンデが顔を上げると、いつになく真剣な双眸とぶつかった。

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