第63話
柔らかく、ほのかに甘い香りが鼻腔をくすぐる。
エルゼリンデは自分の視線のすぐ前にある光景に、図らずも固まってしまっていた。
円卓には、干し葡萄をふんだんに使った焼き菓子とミルクをたっぷり入れたお茶。見るからに美味しそうで思わず咽喉が鳴る。
こういうのは、貴族のお茶会でよく出されるものなんだろうな。一応貴族でありながらそういう慣習に接したことのないエルゼリンデであるが、何となく見当はつく。
「ええと……」
エルゼリンデは大いに戸惑いを練りこんだ呟きを発して、このティーセットを提供してくれた人物を見やる。
「さあ、遠慮なさらず食べてみてください」
ローゼンヴェルトが満面の笑みで彼女に取り皿を差し出す。それを受け取りながらエルゼリンデは恐縮がちに肩を竦める。
「あの、本当にいただいてよろしいんでしょうか?」
お願いとは一体なんだったのか、という疑問を言外に込めてみると将軍は笑顔のまま肯いた。
「もちろんです。それを試食いただくことが私のお願いなのですから」
「そ、そうですか」
遠慮の気持ちは大いにあるものの、やはり目の前の素敵な誘惑には敵わない。エルゼリンデは綺麗に切り分けられた焼き菓子を一切れ、取り皿に載せる。
いただきます、とひとくち。たちまち頬が緩みそうになるのを必死に堪えた。しっとりしているのにふわりとした軽さもある食感、バターとミルクのほどよい甘さに干し葡萄の甘酸っぱさが舌に心地よい。お酒を入れているのだろう、ほのかな苦味も絶妙なアクセントになっている。
「お、美味しいです……!」
感嘆の声を上げる。きっと腕のいい料理人が作ったのだろう。以前に王弟殿下から昼食をご馳走になった時にも思ったが、上流階級の人々は本当に良い物を食べているようだ。
感動に打ち震えんばかりのエルゼリンデに対して、ローゼンヴェルトはどこか安堵したような表情を覗かせた。
「そうですか、それは良かったです。作った甲斐がありましたね」
……ん?
向かいの椅子に腰掛けて微笑む将軍を、失礼とは認識しながらもつい凝視してしまう。いま、この将軍閣下は何と言ったか。
「つ……つくった、ですか……?」
「ええ」
こともなげに肯定され、エルゼリンデの目がますます円くなる。
「戦いが終わった後は、このように心を落ち着ける時間も必要ですし。とはいえお菓子だとなかなか食べてくれる人がいないもので。あなたに声をかけることができて何よりです」
ええと。エルゼリンデは美味しい焼き菓子を咀嚼し終えてから、混乱を鎮めるかのようにお茶を口に含んだ。つまり、このお菓子はローゼンヴェルト将軍の手作りで、自分はその試食をお願いされたというわけであって……
「……お料理、するんですか?」
「しますよ。騎士団内にも料理同好会がありますから」
「料理同好会……!?」
そんな会が騎士団に存在しているんだ。またしてもさらっと凄い事実を告げられてしまい、エルゼリンデは思考を停止させる寸前だった。騎士って、こう――何と言うか、料理なんて無縁な人種だと思っていたのに。
とりあえず引き攣りそうになる口元を無理やり笑みの形に押し上げて
「そ、そうなんですか」
とだけ言っておく。これ以上深入りすべきではない。そう、頭の中で誰かが警告しているような気がした。
「――とまあ、寄り道はこのくらいにしておきましょうか」
不意にローゼンヴェルトが立ち上がる。寄り道? エルゼリンデはちょっと不思議そうに彼を見上げた。他に何かあるのだろうか。
彼女の視線の意味を正確に読み取ったのだろう、ローゼンヴェルトは静かな微笑を浮かべた。
「お見舞いに行きませんか?」
ゼーランディア城の西側の一角が、戦争で傷ついた騎士のための療養所として開放されているという。そこに続く回廊を、エルゼリンデはローゼンヴェルト将軍に先導される形で歩いていた。
すれ違う騎士や官吏らしき人々から露骨に不躾な視線を浴びていたが、今のエルゼリンデはそれに気づく余裕を持ち合わせていなかった。
ザイオンは、無事だったんだ。以前にローゼンヴェルトから知らされた時はそれどころではなく、心に留めておくことができなかった。それをエルゼリンデは恥じていた。
友達なのに、自分のことしか考えてなかった。
「ここです」
俯き加減の彼女の耳に、将軍の声が聞こえてくる。はっとして顔を上げると、目の前には広い部屋があった。平時はホールとして使われているであろうその場所は、いまや野戦病院の有様と化している。出入り口ではひっきりなしに城の使用人や騎士たちが往来している。
「……積もる話もあるでしょう。ゆっくりなさってください」
私はここでお待ちしていますので。そう続けるローゼンヴェルトに、エルゼリンデは頭を振った。
「いえ、マウリッツさんをお待たせするわけにはいきません。一人でも帰れるので、どうぞお気遣いなく」
王弟殿下の腹心をこんな場所で待たせるなんてとんでもない。当然の反応であったが、ローゼンヴェルトからは生暖かい眼差しが返ってきた。
「帰れるのですか、一人で」
「うっ……」
痛いところを衝かれてしまい、口を噤む。確かにここに来るまでの道のりは、気も漫ろだったこともあってどの道をどう辿ってきたのか、さっぱり記憶していない。
将軍は苦笑混じりに嘆息した。
「ということで、もし私がこの辺りにいなかったらその時は出入り口付近でお待ちいただけますか。くれぐれも、お一人でこの場を離れないようお願いします」
後半のいつになく強めの口調に半ば反射的に首肯する。そうして、若干の後ろめたさを抱えつつも、エルゼリンデは室内に足を踏み入れた。
ザイオンは、ホールの一番奥、窓のそばの寝台にいた。にわか作りのカーテンを開けると、体の3分の1を包帯で覆われた少年と目が合った。
「……ミルファーク、か」
「ザイオン」
予想以上に痛々しい友人の姿に立ち竦む。と、彼は黄土色の双眸を細めた。
「ったく、何て顔してんだよ。まるで死人と対面してるみたいじゃねーか」
戦前と変わらぬ軽口を叩き、寝台の横に置かれた粗末な丸椅子を勧める。よかった、見た目よりは元気そうだ。エルゼリンデは胸を撫で下ろした。
「そういや、ここに来る途中でアルフレッドに会わなかったか?」
「アルフレッド? うーん、会ってないと思うけど」
考え事をしながらだったので定かではないが、ただすれ違おうものなら向こうから声をかけてきていたことであろう。首を振ると、ザイオンは寝台に横たわったまま、肩を竦める仕草をした。
「つい今しがた、見舞いに来てくれたんだよ。お供つきでな。で、帰還してからずっとお前の所在が掴めないって心配してたみたいだったから。そうか、じゃあ完全に行き違いだったんだな」
そう言われてみれば、彼ともまったく顔を会わせていない。というか、ゼーランディア城内に部屋を宛がわれてから再会できた知己はセルリアンくらいしか思い当たらなかった。
「ま、暇があったらあいつにも顔見せてやれよ」
彼の言葉にエルゼリンデは肯くと、ふと顔を曇らせた。
「怪我の具合は、どうなの?」
大怪我なのは見るからに明らかで、胸が痛む。ザイオンはしかし朗らかな表情で包帯の巻かれていない左手を振ってみせた。
「それが見た目ほど酷くはなかったみたいでさ。左足は、戦闘の時に敵の馬とぶつかって骨が折れちまったけど、あとは擦り傷と打撲程度」
多少の打撲で済んだ彼女からすれば、充分な大怪我だ。
「結構たいした怪我だと思うけど……でも、無事でよかった」
「……そうだな」
ザイオンは低い呟きを漏らし、視線を彼女から天井へ移す。
「オレさ、死ぬかと思ったんだ」
「え?」
「エレンカーク隊長たちと殿軍に残って戦ってる時、ここで死ぬかもなって思ったんだ。敵が次から次へと現れてく感じで、もう駄目かもしれないってな」
ぽつぽつと、小雨のように言葉を紡いでいく彼を、エルゼリンデは黙然と見つめた。
「そう思った途端、体が石みたいに動かなくなっちまってさ。それでなくてもオレは何の役にも立てなかったんだ。戦う前まではもしかしたら結構やれるんじゃないかって自信、持ってたくせにさ」
情けねえよな。ザイオンが天井を向いたまま自嘲の笑みを口元に刻む。
「だけど実際は、ただがむしゃらに剣振り回してるだけだった。その上怖気づいて動けなくなって、敵が馬ごと倒れこんできても避けきることすらできなかったしな……それで、言われたんだ。エレンカーク隊長に、お前は先に行けって」
ずきりと胸が痛んだ。自分もあの時、ほとんど同じことを言われたのだ。
「んで、オレは何も反論することなく先を行ったってわけさ。ほんっと、情けねえよなあ」
乾いた笑いを含ませる声とは裏腹に、ザイオンの顔が歪む。居た堪れなくて、エルゼリンデは視線を僅かに落とした。彼の左手は硬く握りしめられている。
「何が出世だ。何が副将軍だ……オレは何もできなかった。最初から最後まで、何ひとつできなかった! もしもオレが、あの時もっと役に立ててたら」
拳を握る音が彼女にも聴こえてきそうだった。指の隙間から赤い筋が流れ、白い敷布に小さな染みを作る。
「そしたら、エレンカーク隊長や他の人たちも、死なずに済んだのかもしれないのに」
エルゼリンデは視線を再びザイオンに戻した。本当は戻したくなかったけれど、戻した。そうするしかなかったのだ。
「ちくしょう……」
唇を噛むザイオンの目元を、頬を透明な液体が伝っていく。
「ちくしょう……」
エルゼリンデもまた、両の手のひらを握りしめていた。
そうだ、悔しいのだ。何もできなかった自分が。強くなれなかった自分が。エレンカーク隊長の役に立てなかった自分が。そうして、隊長が彼らの前から永遠にいなくなってしまった、その不条理な現実が。
――ああ、そうか。エレンカーク隊長は、もういないんだ。
その事実が胸にすとんと落ちてきた。いくら捜し回っても、いくら呼んでみても、隊長はもう姿を現してはくれないのだ。もう叱ってくれることも、励ましてくれることも、笑ってくれることもないのだ。
握りしめた手の甲に、ぽたりと雫が降ってくる。それはだんだんと多く、速くなっていく。
「そのときはオレも直属の部下として、隊長の下で働けたらいいなあって思うわけだ」
ザイオンの明るい声が、フロヴィンシアの市場の活況が脳裏に甦る。
それは今のエルゼリンデには、あまりにも眩しかった。おそらく、ザイオンにとっても。
遠くて眩しすぎる記憶を直視することができず、エルゼリンデはまた涙を流した。