第64話

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 草原に落ちかかる夕陽は、暗みがかった赤い色。
 ゼーランディア城のテラスから、エルゼリンデは落ちていく陽の残滓を見晴るかしていた。
 外の景色が見られる場所に行きたい。
 ザイオンを見舞ったあと、待っていてくれたローゼンヴェルト将軍に連れて来てもらったのが、この場所だった。療養所から泣き腫らした目で出てきた彼女に何も言わず、城内で一番見晴らしのいいとされるテラスに案内してくれた将軍の優しさが、今のエルゼリンデにはありがたかった。
 大地を焼いていく落陽で思い出すのは、戦いの前日のこと。
 あの時もこうやって、闇に染まりつつある今日を眺めていた――エレンカーク隊長とともに。
 もう、いないんだ。
 その事実が改めて胸に突き刺さる。エレンカーク隊長は、どこにもいない。彼女の隣にも、目の前にも、どこにも。どんなに困っていても、悩んでいても、厳しい顔で手を差し伸べてくれることもない。
 本当に、死んでしまったんだ。
 紺碧と緋色の混じりあう空がゆらりと滲む。頬を涙が伝った。さっき散々泣いたというのに、まだ涙は枯れていなかったらしい。それにちょっとだけ驚きつつ、指先で生温い水を拭う。
 エルゼリンデの目の前にあるのは、鮮やかな赤色だけだった。エレンカーク隊長の顔を思い返したいのに、ぼやけてしまってはっきり見ることができない。まるで心の中まで涙で濡れているように。亡くしてしまった人を追悼できるほど、彼女の心に余裕はなかった。
 ――ああ、そうだ。
 赤く染まった草原に視線を落としたエルゼリンデは、ふと気がついた。
 名前、知ってほしかったな。
 「ミルファーク」は兄の名前であって、自分の名前ではない。自分の名はエルゼリンデだと、いつかそう告げることができたなら。だけど、その「いつか」はもう巡ってはこないのだ――永遠に。
 一度は止まったはずの涙が、再び目尻に溢れてくる。
 どうしてなんだろう。どうして、エレンカーク隊長が死ななければならなかったんだろう。自分はこうして、五体満足に生きているというのに。生きている自分と、死んでしまった隊長。その境界はおそらく隣り合わせなのに、あまりに深くて遠い。
 エルゼリンデはやりきれなさに体を震わせた。夜の青に追われて地平線の彼方へ消えていく陽の赤は、もう二度と戻ってきてくれない気がした。


 テラスでひとしきり泣き明かし、部屋へ戻ろうとした時にはすっかり暗くなっていた。
 確か、このまま右にずっと歩いていった先にある階段を下りて、それから……
どうするんだっけ?
 ローゼンヴェルト将軍に教えてもらった道筋を思い出すべく頭を回転させるエルゼリンデだったが、努力もむなしく空回りに終わる。
 どうやって帰ればいいんだろうと途方に暮れかけたが、ただぼんやり立ち竦んでいても部屋のほうから迎えに来てくれるはずもない。とにかく階段を下りよう。そうしたら残りの道順も思い出すかもしれないし。よし、と気合を入れてエルゼリンデは足を踏み出した――左に向かって。
 階段がいつまでたっても見当たらないことに気がついたのは、しばらく歩いてからだった。次第に足取りにも焦りが滲みはじめる。まだ無駄に広い廊下に明かりが灯されはじめた頃なら、火を入れて回る使用人に道を訊けただろうが、あいにく廊下は既に仄かな光が踊っていた。
 誰か通りかからないかなと胸中で呟きながら、文字通りうろうろしていると。
「いつまでウロウロしてるつもりだ?」
「――ひゃあっ!?」
 唐突に現れた低い声に背中を押され、エルゼリンデは思わずつんのめりかけた。心臓が口から飛び出るとはこんな感じか、と思いながら背後を顧みると、微妙に見たことのある赤毛の男が立っていた。
 ちょっと前にローゼマリーとともに城内で見かけた騎士だ。そして、その前にも一度目にしたことがあったはずだ。あの時はカルステンスと一緒にいたんだっけか。
 先ほど眺めていた夕陽を思わせる鮮やかな赤毛の騎士が、険のある目つきで見下ろしている。エルゼリンデは目に見えてたじろいだ。そういえば、前にもこんな場面に出くわした気がするな。現実逃避のようにそんなことを考えていると、男が口を開いた。
「で、どこに行くつもりだった?」
「……え?」
 狼狽から解放されないうちに飛んできた質問に、藍色の目をぱちくりさせる。
「え、じゃねえよ。どこ行くのかって訊いてんだろ」
 つっけんどんな物言いに怯みそうになるも、エルゼリンデはぐっと息を吸い、気を取り直して背筋を伸ばした。
「ど、どこって、部屋に戻るつもりだったんですけど」
 精一杯気を張って答える。声が若干震えてしまったのは、まあ仕方ない。
「まったく見当違いの方向なんだが」
「……」
 冷ややかな視線と声が返され、言葉に詰まる。男はそれ以上取り合う気はないらしく、赤毛をがしかしと掻きながら彼女に背を向けた。
「ったく、今度は迷子かよ」
 めんどくせえ、とぼやきながら歩き去る男の後姿を、エルゼリンデはわけも分からず見送った……と思いきや、数歩離れたところで突然男が方向転換し、再び彼女の前に立つ。
「いつまでもぼさっと突っ立ってんな! さっさとついて来い!」
「うわっ!?」
 怒鳴りつけられるなり襟首をぐいっと引っ張られ、そのままなすすべなく引き摺られていく。犬猫のような扱いをされるわ、乱暴な口を聞かれるわでエルゼリンデは怒りがこみ上げるよりも先に、とにかく目が回りそうだった。
「あ、あの、とりあえず自分で歩けますから離してください!」
 そろそろ首周りがきつくなってきたエルゼリンデが抗議の声を上げると、赤毛の男はあっさり襟首を掴んでいる手を離してくれた。あまりにもあっさりしていたから、勢い余ってまたつんのめってしまったけれど。
 どんくさいガキ。そんな彼女を高い位置から見下ろした男は表情だけで吐き捨て、大股で歩き出す。エルゼリンデはついて行くのがやっとだ。
 なんて乱暴な騎士なんだろう。
 こちらの歩く速度などお構いなしに進んでいく背中を追いかけながら、ようやく怒りが状況に追いついてくれた。
 もちろん、これまでの行軍で粗暴な騎士は山のように見てきたし、酷い態度をとられたこともあった。が、城内で自由の利くほどの騎士にこんな扱いをされたのは初めてだ。特に最近は騎士の鑑とも言うべきローゼンヴェルト将軍と接する機会が多かったから、余計に落差が目についてしまうのだ。
 エルゼリンデはふつふつと湧き上がる怒気を眼差しに込めて、前を歩く赤毛を思いっきり睨みつけたのだった。


「もうウロウロしてねえで、さっさとメシ食って寝ろよ」
 部屋の前に着くなり扉を開けてエルゼリンデを室内に突き飛ばした赤毛の騎士は、憤然とする彼女にそう言い残し、さっさとどこかへ行ってしまった。最後まで無碍な扱いを受け舌でもだしてやろうかと考えたが、さすがに大人げなさ過ぎるのでやめておく。
 まったく、ひどい騎士に遭ってしまったものだ。エルゼリンデは一人で使うには大きすぎる寝台に腰掛け、頬を膨らませた。
 部屋まで案内してくれたのは感謝するにしても、扱いがあまりにぞんざい過ぎる。しかも、こちらに非があるならともかく、話したのだって今日が初めてだというくらいなのに。
 行き場のない憤りを持て余しているところへ、扉がノックされる音が響いた。エルゼリンデははっと我に返り、寝台から立ち上がる。食事を持ってきてくれたのかな。そう思いながら扉を開けると、視線の先には見知らぬ少年の姿があった。
「はじめまして、こんばんは」
 明らかに貴族の子弟と分かる、品のよい美少年だ。自分よりも2、3歳は上に見える。身なりからして、高位の貴族の従者だろうか。
「……はじめまして」
 誰だろうかと訝りながら、エルゼリンデも会釈を返す。どうにも警戒してしまうのは、少年の顔に友好的という単語が見当たらないからだ。
 黒髪の美少年は、どことなく憮然とした表情のまま、仕草だけは恭しく頭を下げた。
「私はイェルク・ヴァン・ベルトラムと申します。マウリッツ様の従者をしておりましたが、諸般の事情により本日からミルファーク様のお世話をさせていただくことになりました。以後、どうぞお見知りおきを」
 マウリッツさんの従者。エルゼリンデはびっくりしてしまった。ローゼンヴェルト将軍の従者とあらば、自分より身分の高い貴族であることは間違いない。そんな人に世話をしてもらうなんて、恐縮どころの話ではない。
「お、お世話……ですか?」
 戸惑うばかりのエルゼリンデに、イェルクと名乗った少年は緑眼をひらめかせた。
「私ごときが従者ではご不満でしょうか」
 言葉遣いは謙っているが、嫌味だとすぐに知れた。そりゃあ、自分より身分の低い人間の下に付けられるなんて面白くないだろう。エルゼリンデは少年の境遇に僅かばかり同情する――多分、おこがましいことなんだろうけど。
「え、いや、とんでもないです」
 慌てて否定の言葉をつむぐ彼女に、イェルクは当然だといった面持ちで頷く。そして、手にしていた銀盆を突き出した。
「こちら、本日の夕食でございます」
「あ、ああ、ありがとうございます」
 勢いに押されて盆を両手で受け取る。
「給仕はなさいますか」
 問われて、すぐに首を振る。こんな非友好的な態度で給仕をされては、美味しい料理も美味しく味わえない。
「かしこまりました。お着替え等、必要なものはすべて部屋に揃えてありますので。何か分からないことがありましたらお申し付けください。まあ、ミルファーク様ほどの方に私めの手など必要ないかもしれませんが」
 ひと息に捲くし立て、ついでに最後に嫌味を付け加えて、少年は部屋から立ち去った。
 エルゼリンデは料理の載った銀盆を手にしたまま、呆然と扉が閉まる様を見つめるばかり。
 いったい、何なんだろう。
 立て続けに非友好的な人物と遭遇して、頭の中では憤りと混乱と戸惑いが跳ね回っている。
 ――そもそも私はどうしてこんな豪華な部屋にいるんだろう。
 首を傾げて呟いてみても、答えはどこからも返ってきそうになかった。

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